コーチンの歴史

【明治以前の養鶏】

養鶏場

明治以前の日本では、闘鶏用の軍鶏や愛玩用のチャボを飼う人はいても、卵や肉を目的とした養鶏はほとんどありませんでした。 しかし、現在の愛知県西部である尾張藩では卵や肉を売るために鶏が飼われており、安政の頃には地鶏や軍鶏を改良して卵をよく生む雑種を作っていた人もいました。

【明治維新後】

明治以前の日本では、闘鶏用の軍鶏や愛玩用のチャボを飼う人はいても、卵や肉を目的とした養鶏はほとんどありませんでした。 しかし、現在の愛知県西部である尾張藩では卵や肉を売るために鶏が飼われており、安政の頃には地鶏や軍鶏を改良して卵をよく生む雑種を作っていた人もいました。

【海部兄弟】

名古屋コーチンの生みの親とされる海部壮平・正秀の兄弟も、海部流砲術の始祖とされる、海部定右ヱ門正親を祖先とする尾張藩士でした。 兄の壮平は弘化4年に名古屋で生まれ、25歳のときに父と共に東春日井郡に移り雑貨店を開きましたが、 養鶏に関心の深かった壮平は明治12年に店を閉じ、その後養鶏に従事することになります。 弟の正秀は嘉永5年に次男として出生、廃藩後は兄の壮平より早くから養鶏に取り組みます。 壮平が本格的に養鶏に取り組んでからの二人はお互いに助け合い、競争しあって養鶏に精魂を傾けていました。

【地鶏改良】

当時の地鶏は雌で1kgと体も小さく産卵数も少なかったため、九斤という品種の鶏と交雑、さまざまな交配を進め、理想の鶏に近づけていきました。 こうした努力とその経験をまとめた著書「養鶏方案」は、明治23年に上野で開催された、「第3回 内国勧業博覧会」で三等有功賞を受賞します。 海部養鶏場には遠近からも数多くの人が見学、購入に訪れるようになり、ここでの改良種は「海部種」「海部の薄毛」と呼ばれて評判を高めていきました。

【確立と発展】

改良された「薄毛」が京都や大阪に広まっていくと、名古屋コーチンと呼ばれて評判となり、明治30年頃には名古屋市以外でも名古屋コーチンという名前が定着していきました。 日本家禽協会がこれをひとつの品種であると公認したのは明治38年のことで、大正8年に「名古屋コーチン」は「名古屋種」と改名され、現在に至っています。